ピースパズル - 広島の町に点在するピーススポットを巡るデジタルスタンプラリー

解答集 - answer book -

おすすめルートの解答集です。
Here is the answers to the questions.

peace park route

Peace park route

Produced by Peace Culture Village

  • What was the nationality of the man who designed the building that became the Atomic Bomb Dome?

    The answer is Czechoslovakian.

    The original Western-style building was built in 1915 based on a design by Czech architect Jan Letzel, who was commissioned by Yushi Terada when he was transferred from governor of Miyagi Prefecture to governor of Hiroshima Prefecture in the spring of 1913.

    When Terada was governor of Miyagi Prefecture, he liked Letzel’s Prefectural Matsushima Park Hotel, which featured a quasi-Japanese exterior and Western interior. This led to his choosing Letzel to design the Hiroshima Prefectural Commercial Exhibition Hall.

    While most buildings at the time were two-story structures, the five-story Western-style building attracted attention and soon became one of Hiroshima's best known landmarks.

  • What is the picture on the bell?

    The answer is World map without borders.

    The bell is the work of Masahiko Katori, whose craftsmanship earned him designation as an Important Intangible Cultural Property (Living National Treasure). The surface of the bell is embossed with a map without borders symbolizing "one world”. The bell is further decorated with a nuclear symbol that symbolizes a prohibition against atomic and hydrogen bombs. On the other side of the bell, a mirror reflects the “heart” of the person striking the bell.

  • How many people from the Korean Peninsula were living in Hiroshima before the atomic bombing?

    The answer is 100,000 or more.

    This includes laborers, military personnel, mobilized students, and civilians. The name change requirement of 1939 forced Koreans to take Japanese names. Therefore, the full picture of Koreans exposed to the atomic bomb is unclear.

  • How many countries around the world supported construction of the Children’s Peace Monument?

    The answer is 9.

    The Children’s Peace Monument was unveiled on May 5, 1958. The funds came from more than 3,200 schools across Japan and nine countries around the world. A fundraising campaign started by Sadako's classmates after her death led to construction of this memorial to all children who died due to the atomic bombing.

  • At the time of the atomic bombing, foreign students from which areas were attending the Hiroshima

    The answer is Southeast Asia.

    Foreign students came from Malaysia and Indonesia. Nick Yusoff from Malaysia was exposed to the bomb and died at the age of 19. After the bombing, surviving foreign students returned to their home countries. Many assumed leadership positions in various fields. Many also became pro-Japanese leaders.

  • What lies in the stone chamber under the cenotaph?

    The answer is Name lists.

    In the central stone chamber are books holding the names, birth and death dates, and ages of all who were exposed to the atomic bomb and died in Japan or overseas. The list is updated every year on August 6, with additions made at the request of the bereaved families. The "airing" of the books shown in the photo takes place on the third Wednesday of May at 8:15 a.m. every year.

  • Which of these people helped to support over 400 A-bomb orphans?

    The answer is Norman Cousins.

    Norman Cousins was an American journalist and peace activist who, in 1949, promoted the moral adoption of A-bomb orphans. He also helped disfigured young women go to the United States for surgery. Because it was impossible at the time to adopt A-bomb orphans and take them to the U.S., Cousins recruited " spiritual parents" from all over the U.S. to provide moral and financial support, sending the orphans money every month.

    In 1964, he became an honorary citizen of Hiroshima. This monument was erected on August 2, 2003.

  • What does the shape of the bridge represent?

    The answer is The Sun.

    Isamu Noguchi lived through turbulent times and left behind prominent works in many places. When he visited Hiroshima City in 1984, he explained the design as follows: “Peace Bridge was designed to elicit the shape of the sun, symbolizing life, and West Peace Bridge depicts the bones of a ship, symbolizing death as the victims sail off to the spirit world."

    To offer a safe and comfortable approach for visitors to Peace Memorial Park, a pedestrian bridge was built upstream of the Peace Bridge. It opened to traffic in March 2019.

  • The Gates of Peace have something written in 49 different languages. What is that?

    The answer is Peace.

    Each steel and tempered-glass gate, including the paving stones on which it rests, is inscribed with the word "peace" in 18 different scripts and 49 different languages. At night, the lights make the letters on the gates appear white. See if you can find “peace” written in your native language.

ルートその1

徒歩で巡る「子どもたちが歩んだ軌跡ルート」

広島城から広島平和記念公園までを歩き、戦中・戦後の子どもたちのストーリーを知るルート
●制作:特定非営利活動法人Peace Culture Village

  • 中国軍官区司令部跡は爆心地からどのくらい離れている?

    答え:約0.7km

    中国軍官区司令部跡は、爆心地から約0.7kmの距離で被爆しました。原爆の強烈な爆風と熱線は、爆心地から2km以内の建物をほとんどすべて破壊し、焼き尽くしました。2kmを超える地域でも、木造の建物は大破以上の被害を受け、当時の広島市内の建物の9割が壊滅的な被害を受けました。2020年現在、広島市の被爆建物リストに記載されている被爆建物は86件で、ここは爆心地から9番目に近い被爆建物となっています。

  • 1970年頃、相生通りには約何戸の家が建っていた?

    答え:約1000戸

    広島市内には、相生通り以外にも多くのバラック住宅がありました。家が撤去され住む場所がなくなった人々は残っているバラック住宅を転々とし、最終的に残ったのが相生通りでした。すすきや笹やぶに覆われた土手に小屋が建ち並び始め、1950年頃には不法住宅64戸、河川敷一帯の住宅は100戸を超える状況でした。1970年頃には1千戸ほどのバラック住宅が建ち並び、差別と貧困にあえぎながらも支えあい暮らしていました。

  • 爆心地から約2kmで被爆した被爆樹木はいくつある?

    答え:約160本

    約160本の被爆樹木は1本1本生き残ったストーリーを持っています。 ぜひそのストーリーにも触れてもらえたら嬉しいです。 被爆樹木の苗木は日本中、世界中に届けられ、ヒロシマのメッセージを伝えてくれています。
    「緑」の伝言 :https://www.green-greetings.com/2018/

  • 原爆の後、電車は何日後に走った?

    答え:3日後

    笹口さんは、二つ違いの姉、喜久子さんから聞かされた「都会」に憧れ、広島市へ移り住みました。「建物が並び、電車が走るのを見てすごいと思った」と振り返ります。 原子爆弾投下後、先生に「明日から車掌をしてほしい」と頼まれた時「もう電車が走るんだ」と喜びを感じたそうです。

  • 原爆ドームはいつ世界遺産に登録された?

    答え:1996年

    1992年、日本のユネスコの世界遺産条約加盟を機に、原爆ドームを世界遺産にという声があがりました。市民団体が全国的な署名運動を展開し、1996(平成8)年、原爆ドームは世界遺産一覧表に登録されました。 広島の有名な観光地である、宮島の厳島神社も同じ年に世界遺産に登録されました。

  • 展示されてある被爆ピアノには、ガラス片がまだ突き刺さったままの場所があります。それはどこでしょう?

    答え:左側面

    このピアノのように、窓ガラスの破片が残るほど爆風の威力は凄まじいものでした。 爆風により窓ガラスが割れたり、木造の家屋が倒壊したことによって被害を受けた人もたくさんいました。

  • 子どもたちはどういった方法で、この原爆の子の像を作ったでしょう?

    答え:募金活動をした

    禎子さんをはじめとする原爆の犠牲になった子どもたちのために、禎子さんの友達や同級生たちは慰霊碑を建てるための募金運動を始めました。今では折り鶴は平和のシンボルとなり、日本だけでなく世界中からたくさんの折り鶴がこの原爆の子の像に捧げられます。 ここへ展示された折り鶴はその後、ポストカードやしおりなどにリサイクルされています。広島市では、折り鶴の再生紙を使った学校の卒業証書も誕生しました。

ルートその2

徒歩で巡る「未来への手紙ルート」

歴史ある神社から、市内有数の繁華街だった広島平和記念公園を中心に巡り、戦前・戦中・戦後の広島を知るルート
●制作:第三世代が考えるヒロシマ「」継ぐ展

  • 約430年前、白神社の一帯はどんな場所だった?

    答え:海

    今から約430年前、この白神社のある場所から南は、海でした。交通の難所だったため、当時の船人が岩の上に白い紙をたて、海上安全を祈願していました。やがて、この周りは干拓されて陸になり、白紙=白神と呼ばれる祠が建てられました。神社の左奥にある本殿の土台になっている岩礁を見てみましょう。

  • 被爆から2日後に支払業務を再開した時、銀行を訪れた被災者へ取られた特別な措置はなに?

    答え:通帳や印鑑がなくてもお金の引き出しに応じた

    8月8日午前10時半から営業を開始。預金の払い出しや火災保険の受け取りに来た人たちのほとんどが通帳や印鑑がありませんでした。それでも、行員の記憶を頼りに極力支払いに応じ、復興資金の貸し出しも迅速に実行されました。その後の調査で不正をした人はおらず、自分の預金残高を超えて引き出した人も一人もいなかったそうです。(広島銀行(旧芸備銀行)職員 田辺良平さんの話)

  • この人(石碑の人)は何をした人?

    答え:原爆の後、広島の人たちのために医薬品を手配した

    マルセル・ジュノー博士は、1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日しました。当初の目的は、連合軍捕虜などの動静を調査することでしたが、広島の原爆被害の惨状を知ると、直ちに連合国最高司令官総司令部へ救援を要請しました。調達した5トンの医薬品を持って9月8日に広島に入り、現地では、被害調査に当たるとともに自らも治療に携わりました。袋町小学校の救護所でも治療を行っています。

  • 爆心地から半径5km以内の被爆建物は、いくつ残っている?

    答え:86件

    現在、爆心地から半径5km以内には、原爆ドームをはじめ86件(公共所有22件・民間所有69件、令和4年3月1日現在)の被爆建物が残り、被爆の痕跡を今に伝えています。どんな建物が残っているのかを調べてみましょう。

  • 原爆は病院から何メートル上空で爆発した?

    答え:約600m

    空を見上げてみましょう。600mはスカイツリーと同じ高さです。 1945年8月6日 8時15分、「エノラ・ゲイ」号から相生橋をめがけて投下された原子爆弾は、風に流され、この島病院の上空で炸裂しました。

  • 1945年8月6日は何曜日だった?

    答え:月曜日

    1945年8月6日は月曜日。原爆が投下された8時15分の気温は26.8度でした。 深夜から早朝にかけて空襲警報と警戒警報が続いていましたが、午前7時31分に解除。 一息ついた人たちは、防空壕や避難場所から帰宅して、遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。

  • 日本が戦争に負けた後すぐ、本川小学校の男子児童がなりたかった職業は?

    答え:農家

    原爆が投下された2年後の1947年、本川小学校の児童に「将来何になりたいか」と調査したところ、男子児童のトップは農家、2位が大工でした(女子児童のトップは先生)。戦後の食糧不足と住宅不足は子どもたちの将来の夢にも影響していました。本川小学校の平和資料館にもぜひお立ち寄りください。

  • 鐘を突く場所に描かれているマークはなに?

    答え:原子力マーク

    撞座(つきざ)には、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークが描かれています。

  • 被爆当日、建物疎開(空襲に備えて建物を壊し火災の延焼を防ぐ)作業中に犠牲になった学徒の人数は?

    答え:約6,300人

    原爆の被害にあったのは、おとなだけではありません。 被爆当日、建物疎開作業に動員された学徒の人数は約8,400人。 その内、約6,300人の子どもたちが原爆によって命を落としました。

  • 被爆した墓石の周りの地面は、なぜ低くなっている?

    答え:被爆前の地面がこの高さだった

    墓石のある地面は、被爆当時の地面です。 平和記念公園は盛り土をして建設されたため、周囲を石で囲み、池の底のようになっています。

  • 禎子さんのストーリーを初めて海外に紹介した人は?

    答え:オーストリア人

    オーストリア人のジャーナリスト、ロベルト・ユンクさんが、禎子さんが亡くなった次の年(1956年)に河本一郎さんから話を聞き、広島の惨状を記録したルポルタージュ「廃墟の光ーよみがえるヒロシマ(邦訳出版1961年)」にエピソードを書いたのが、初めて世界に紹介された書物だと言われています。

  • 平和の灯の火は、いつ消えることになっている?

    答え:核兵器が地球上から無くなった時

    この灯は「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴です。 2022年現在の全世界の核兵器の数は約12,700発。約90%以上をアメリカとロシアが保有しています。実戦配備をされ、すぐ使える状態の核兵器の数は約3,700発あります。 太平洋戦争時、日本も原子爆弾の研究と開発をしていた事実はあまり知られていません。

  • 碑文の中にある「過ちは繰り返しませぬから」の主語はなに?

    答え:わたしたち

    平和記念公園を設計した丹下健三は「平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。」という言葉を残しています。 「戦争はどうして起こるの?」「戦争や紛争を起こさないためにはどうしたらいいの?」と、子どもたちから聞かれた時、あなたは「自分の言葉」でどう答えますか。

ルートその3

自転車で巡る「川と海の記憶ルート」

戦中に軍港として使われ、今は瀬戸内の島々を結ぶ宇品港と広島市内を流れる川の記憶を辿るルート
●制作:sokoiko! cycling tours(株式会社mint)

  • 原爆に耐え現存している橋は何本?

    答え:6本

    被爆時、広島市内には50を超える橋が架かっていました。その多くは爆心地から2.5km以内に集中しており、多大な被害を受けました。かろうじて焼失や壊滅を免れた橋も、翌9月の枕崎台風等でその多くが流出しました。その後も老朽化した橋や新たな交通需要や安全基準でなくなった橋は架け替えられ、爆心地から半径5km以内に残る被爆橋梁は6橋のみです。今もかつてと変わらず人々の暮らしの橋渡しをしています。

  • 年間何人が海外から広島市に訪れる?※コロナ前2019年カウント

    答え:約184万人

    コロナ前2019年まで年々広島を訪れる訪日観光客は増え続けています。Aの103万人は2015年、Bの152万人は2017年の数字です。 コロナの影響で2020年以降は減少していますが2022年10月11日より水際対策の規制が緩和されまた多くの方が広島を訪れる傾向が高まっています。

  • 現在T字の相生橋。被ばく前は違うアルファベットの形をしてました。それはどれ?

    答え:H型

    1932年(昭和7年)に架け替えた相生橋は、1934年(昭和9年)に橋の中央部分から、中島北端(現在の平和記念公園北端)へ橋げたを伸ばし、全国でも珍しいユニークなT字型になりました。また、そのすぐ南側には、1878(明治11)年に架けられた木造の東西2つの相生橋があり、それが取り払われるまでのわずかの間、相生橋はH字型を構成し、特徴的な景観を形づくっていました。

  • 産業奨励会館にて、日本で初めて紹介されたお菓子は?

    答え:バームクーヘン

    ドイツ人の捕虜が作った美術・工芸品、飲食物など323品目が出品されました。この時、捕虜の1人であった菓子職人カール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを紹介したと言われています。

  • 平和大橋の半円の形は何を模してるか?

    答え:太陽

    平和大橋の高欄先端の半円球が「東から昇る太陽」を表し、西平和大橋の 高欄は、端部が弧を描いて地中に没しているため「西に沈む夕日」を表して いるとされています。

  • 電気が復旧したのは被爆後何日?

    答え:1日

    電力も原爆投下直後は広島市全域が停電となったものの、被害が小さかった変電所を応急修理し、被爆翌日の7日には宇品方面、8日には広島駅周辺などへの送電が開始されました。

  • 広島市内には原爆に耐えた木もたくさんあります。何本でしょうか?

    答え:160本

    1945年の原爆で焦土と化し「向こう何十年草木一本生えない」と言われた広島ですが今では沢山の緑が生茂っています。原爆に耐えた160本の木、そして様々なところから贈られ植樹された木々は街の復興に大きく貢献しています。

  • 原爆により焼失した範囲は爆心地からどのくらい?

    答え:半径約2.5km

    原爆は爆心地の島病院の上空約600mで爆発しました。 壁の厚さが1mもあったとされる島病院も,原爆の破壊力にはひとたまりもなく,わずかに玄関周りの円形窓と丸柱だけが,かつての名残をとどめていました。原爆が市内中心部の上空で爆発したことと,爆心地から3㎞の範囲内に市内の全建物の約85%があったことから,被害は市内の全域におよび,建物の90%以上が破壊,または消失しました。

  • 広島市内に橋は何本ある?

    答え:3,100本

    広島市が管理する道路橋(以下「橋」という。)は、2019年3月31日現在 で3,177橋あり、橋長15m以上のものは777橋あります。 広島は豊かな川の流れで 発展した街でもあり、人々が生活するうえで橋は欠かせないもので「橋を渡る」ことは広島の日常風景です。

  • 日清戦争の時、軍の要請でつくられた5.9kmの「宇品線」は、何日で完成した?

    答え:16日

    当時広島駅から宇品港までの輸送機関が存在していませんでした。そこで広島駅と宇品港を結ぶ「宇品線」が着手されました。必要に迫られた陸軍からの要請ということもあり、工事はハイスピードで進められました。 着工が1894年8月4日、竣工が8月20日という、わずか16日間の突貫工事で広島駅~宇品港の5.9kmの敷設工事が完了。翌日には運行が開始され、軍事輸送専用線としての宇品線が開通しました。

  • 広島港の歴史はいつから?

    答え:1100年代

    1171年、太田川河口に倉庫敷が設置、戦国時代に水夫を中心とした五か村がつくられ、毛利氏が1589年に五か村に広島城を築城し、水陸交通の便を整えました。※
    明治になり宇品港ができ、軍港へ。1932年に宇品港から広島港へと改名し、戦後1948年に貿易港として開港。現在は国際フェリーポート共用など重要な海の玄関口としての役割を担っています。 ※広島城より南部は埋め立てで延長した陸地。

ルートその4

路面電車や徒歩で巡る「町中チャレンジルート」

おりづるタワー内にあるQRコードを読み取ったり、町中のデジタルサイネージに表示される問いに答えて巡るルート。広島の町を歩きながら挑戦しよう。

  • 広島駅南口周辺には再開発の後も残された「被爆ポンプ」があります。いくつあるでしょう?

    答え:4つ

    2022年現在、広島駅周辺には4基の被爆ポンプが残っています。 2014年前後、広島駅南口Bブロック再開発のために、3基は撤去され、その内の1基は平和記念資料館に引き取られました。 猿猴橋町駅近くにあるポンプを探してみよう。

  • 百貨店 「福屋」が戦後、最初に販売したものはなに?

    答え:お酒

    戦後、福屋再建のスタートは「清酒の立ち飲み」でした。 「広島復興の足がかりは福屋からだ。再建しよう」との思いが広がり、昭和46年元日から牛乳瓶に一合(180㏄)の酒を入れ、燗にして販売。その後、徐々に売り場を再建していきました。

  • 広島のお好み焼きに、1955年頃(昭和30年代)まで定番で入っていなかったものは?

    答え:麺

    今では当たり前に入っている麺ですが、元々は野菜の重ね焼きがメインでした。 お好み焼きの前身は、戦前から庶民の間で親しまれた「一銭洋食」です。 戦後、アメリカから支援物資として配給された少量の小麦粉を多めの水で溶き、ねぎやキャベツ、 もやしなどを焼いて食べていました。 1965年頃までは、当時高級品だった卵や肉を家からお店に持って行き、入れてもらうスタイルも多く見られました。

  • 戦後、広島の人たちのために、家を建てにやってきた人の出身国は?

    答え:アメリカ

    米国出身の森林学者、フロイド・シュモー(1895年-2001年)は、広島・長崎への原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々の家を建てるために1949年8月、仲間たちと共に広島へやってきました。 皆実町(南区)・江波地区(中区)・牛田東(東区)に計15棟(21戸)を建て、今でも江波には「シュモーハウス」が1棟残っています。

  • 大正時代に本通りにあった物の「形」が、現在もアーケードのオブジェに使われています。それはなに?

    答え:すずらん

    アーケードの上部、中央のオブジェを見てみましょう。「すずらん」の形が見えるはずです。1921年に、すずらん燈が設置され「すずらん通り」とも言われていましたが、戦争中の金属回収により姿を消しました。原爆により壊滅した次の年、旧商店主らが再建に立ち上がり、2年後には、木造の住宅兼店舗が建ち並び、営業を再開しました。

  • 広島の市花になっている、原爆投下後いち早く咲いたといわれる花は?

    答え:キョウチクトウ

    キョウチクトウは、原爆により75年間草木も生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花と言われています。 他にも、原爆投下後に広島市内で咲いた花は、カンナが知られています。 花が咲く姿は、生きる力をなくしていた当時の人たちに希望を与えました。 キョウチクトウは、1973年11月3日に市民投票によって、広島市の花に制定されました。

  • 戦後建築物として、はじめて国の重要文化財に指定されたものは?

    答え:広島平和記念資料館

    1955年に開館した広島平和記念資料館は、建築家 丹下健三が設計し、国際的に高い評価を受けました。2006年7月5日に平和記念資料館の本館部分が、戦後建築物としてはじめて国の重要文化財に指定されました。 ※市内にある「カトリック幟町教会世界平和記念聖堂」も、平和記念資料館と同時に重要文化財に指定されています。

  • 被爆前まで、(おりづるタワーのある)この地域一帯で受け継がれていた伝統文化はなに?

    答え:能

    この地域一帯は「猿楽町」と呼ばれ、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。 被爆前の猿楽町に住んでいた世帯数は260世帯、1055人。 おりづるタワーが建つ前にはなにがあったのか、原爆ドームの入り口に、町の復元地図があるので探してみましょう。

スタンプラリーに関するお問い合わせ

ピースパズル事務局(一般社団法人 HelloHiroshima)

hellohiroshimapj@gmail.com /
090-9242-7818

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