ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 12
2018.3.24 up

これからの将来を担う子供たちに、ヒロシマの出来事を伝える「自分の言葉」を持ちたいと思いました。

西村 宏子Hiroko Nishimura

ピースボランティア

西村 宏子さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
広島平和記念資料館や平和記念公園をガイドするピースボランティアの活動や、広島の復興に関わったアメリカ人フロイド・シュモーを継承する「シュモーに学ぶ会」を主宰されている西村宏子さん(60)にお話を伺いました。
※このインタビューは、令和3年度版中学校英語教科書『Here We Go! ENGLISH COURSE3年』(光村図書 出版・発行)に掲載されました。

目次

  1. ピースボランティアをはじめたきっかけ
  2. ピースボランティアの活動について
  3. 「シュモーに学ぶ会」について
  4. 次の世代へ伝えていきたい想い

ピースボランティアをはじめたきっかけ

◆ヒロシマ ピース ボランティア

広島平和記念資料館内や平和記念公園内の慰霊碑を来館者と共に巡り、解説を行うボランティアガイド。
※以下「ピースボランティア」と呼ぶ。

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/Virtual_j/tour_j/guide2_8.html

先ほどは、平和記念公園の中の慰霊碑巡りをしてくださりありがとうございました。
とても詳しく解説してくださったのでそれぞれの慰霊碑の意味を深く知ることができました。
西村さんはこのピースボランティアの活動をいつからはじめられたのでしょうか。

西村 宏子さん

ピースボランティアをはじめたのは2000年からです。
42才からスタートしました

現在まで17年間も続けていらっしゃるのですね。ピースボランティアに応募された動機を教えていただけますか。

一言で言うなら、自分の娘や、これからの将来を担う子供たちにヒロシマの出来事を伝える「自分の言葉」を持ちたいと思ったからです。

ボランティアに応募される前から、こういった平和活動には関心があったのでしょうか?

テキスト

いいえ。広島で生まれ育った私は、幼い頃から平和教育を受けており「自分はヒロシマについて学んでいて、知っている。」と思い込んでいました。
平和記念公園は住んでいる家の近くだったこともあり、散歩などで日常的に訪れていましたが、資料館を訪れることはありませんでした。

関心を持つようになったきっかけは何だったのでしょうか?

テキスト

娘が小学校1年生になった時、家族の仕事の都合で神奈川へ引っ越しました。
広島へ一時帰省をした際、平和記念公園で娘から受けた質問にうまく答えられない自分に気づいたことが大きなきっかけだったと思います。

どのような質問だったのですか?

テキスト

慰霊碑を見て「あれは何?どうしてあの場所でお祈りしている人がいるの?」とか、原爆の子の像を見て「この折り鶴は何?」と矢継ぎ早に聞かれました。

「平和になりますようにってお祈りしているんだよ。」「平和を願って折ったんだよ。」といった模範的な回答をすればよかったのかもしれませんが「私には何も伝える言葉がない。」と思ってしまい、うまく言葉にすることが出来ませんでした。

その後、すぐに娘と書店へ行き、原爆に関する絵本を買って一緒に読み始めました。

「何も伝える言葉がない」とご自身で気づかれたことが、ピースボランティアへの応募へつながったということですね。

西村 宏子さん

はい。5年後、私たち家族は広島へ戻ってきました。
娘は、関東では経験しなかった学校での平和学習の取り組みに対し興味を持ったようで、友人たちと折り鶴を折ったり、平和記念資料館に行ったりしていました。

私は、ピースボランティア2期生の募集をチラシで見つけて、すぐ応募をしました。
ただ、いざ応募用紙を書こうとした時、手が止まってしまったんです。そこには「あなたには何ができますか?」というような項目が書かれていました。
英語で伝えることができるとか、手話ができるとか、自分にそういった特技があればよかったのですが、私には何も書けるものがありませんでした。最終的に娘の質問に答えられなかったあの時の想いを正直に書きました。

娘に伝える言葉を持ちたいという想いが行動につながったわけですが、娘と一緒に遊んでいる子供たちの姿を見た時に、この子たち全員がこれからの世界をつくっていくのだと感じ、皆が大切な自分の子供のように思えてきたのです。
そういった気持ちが応募への後押しになったのだと思います。

ピースボランティアの活動について

ボランティア活動をはじめる前後で、ご自身の中で変わったことがあれば教えていただけますか。

テキスト

そうですね。今まで関心がなかった情報に意識的に目を向けるようになりましたし、家族の食卓の中で「今日はあそこで核実験があったよね」という会話が自然と交わされるようになったのは、大きな変化だと思います。

ご自身が体験されていない出来事を人に伝えていく難しさはありますか。

西村 宏子さん

はい。ピースボランティアに入って、半年間は被爆の実相を学んだり、被爆者のお話を聞いたり、1期生の先輩方や同じ志をもつ仲間たちと勉強会を開いたりしていました。

活動を始めて間もないころ、見学に来られた女性の被爆者が「そうは言ってもあなたたちにはわからないわよね、体験していないものね。」とおっしゃったときに、このまま私が語ってもいいのだろうかと感じたことがありました。
その言葉は決して批判的なものではなく、純粋に知らないだろう、と思われて出たものだと思うのですが、心につき刺さったのを覚えています。

西村 宏子さん

しかし、ボランティアの仲間たちの「続けていくことが大事だし、みんなで一緒にやっていこう!」という前向きな姿勢や、他の被爆者の方から頂いた「私たちはいずれいなくなる。
いつかは「知らない人」ばかりになる。知らないことを受け継いで話してくれることに、感謝してもしきれない。あなた方の行動は大きな励みになった。まだ頑張るよ!」
という言葉から、だんだん気持ちが前に向いていきました。

私の父は被爆者なのですが、我が家の中では1回も被爆体験を語ることはなかったんですね。
自分の活動の中で父の足跡を辿りながら、彼が「語れなかったのか」「語らなかったのか」、その思いを考えていくことも、事実の継承だけではない、想いの継承につながるのではないかなと思っています。

「シュモーに学ぶ会」について

西村さんは、ピースボランティアの他に広島の復興に関わったアメリカ人のフロイド・シュモーさんを継承する「シュモーに学ぶ会」という活動もされていらっしゃいますが、活動内容について教えて頂けますか。

西村 宏子さん

「シュモーに学ぶ会」というのは、アメリカ人のフロイド・シュモーさんに関する資料を集め足跡を辿り、次の世代へと伝えていくという活動です。私たち自身もシュモー精神に学びながら現在は6名で運営をしています。

シュモーさんはアメリカ・シアトルに住んでいた森林学者で、原爆投下の事実をアメリカで知り、アメリカ人のひとりとして謝罪の気持ちを持って、1949~1953年の間、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動を進めました。

絵本にもなっていますよね。
アメリカ国籍の方が被爆直後の広島に足を踏み入れるのは、とても勇気がいることだと思います。

ほんとうにその通りだと思います。しかし、シュモーさんは信念に従いました。「6000マイル離れたところにいて、自分はかすり傷ひとつ負わなかったけれども、心は大きく傷ついた。自分の頭の上に原爆が落ちたかのようだった」と言い、アメリカで仲間を募り募金により集めた4000ドル以上というお金を携えて広島に来られました。

東京からの学生ボランティアや広島の人たちの参加もあり、年齢も性別も立場も、国も人種も宗教もこえた仲間たちがひとつに集まって一緒に家を建てたのです。
色んな復興支援がある中で、人の真心を伴った支援は、お互いの相互理解が生まれます。
それが平和な世の中につながっていくのかもしれないとシュモーさんの存在を知った時に感じ、深く心を打たれたのを覚えています。

シュモーさんが建てた家は今でも広島にあるのでしょうか?

西村 宏子さん

はい。1軒だけ残っています。
シュモーさんは仲間とともに「皆実町(みなみまち)」と「江波(えば)」、そして「牛田(うした)」という3か所に20軒の家と1軒の集会所を建てられました。
その中で江波にあった集会所は、現在「シュモーハウス」という展示施設に生まれかわり、被爆後の広島に寄せられた海外からの様々な支援を紹介しています。

皆実町は取り壊された後、その跡地に「皆実平和住宅」という集合住宅が建設されました。
建物こそ残っていませんが「平和住宅」という名称は今もその地に息づいています。
実は、完成当時に「シュモー住宅」という名前になる予定だったのですが「そんな名前を付けてもらったら困る」とシュモーさんが反対して「平和住宅と変更されるべき」と自ら訂正したというエピソードがあります。
彼は家を建てること自体を目的としていたわけではなく、償いの気持ちをなにかしらの形で表したかっただけなのだと思います。
家を建てるために集まった人たちが一緒に行動をし、プロジェクトを成し遂げることで相互理解が生まれ、そこから平和を構築していこうとしているわけです。

シュモーさんご自身も支援の形として、物資を送る方が良いか、家を建てる方が良いか、悩んだと思います。しかしやっぱり家というのは家族があたりまえの日常を過ごすことで癒され、希望を抱く場所でもあると思ったのではないでしょうか。
シュモーさんの行動は「被爆体験はしていないけれど、人の心に寄り添って、人の痛みを自分のものとして感じる」ことを体現していると感じ、私自身の活動の大きな原動力となっています。

次の世代へ伝えていきたい想い

ありがとうございました。西村さんの活動を通して、次の世代へ伝えていきたい想いがあれば最後に教えてください。

テキスト

シュモーさんは「戦争で傷つくのは国家ではない、都市でもない、ただ人である。」と言っています。また、「平和は言うことではない、行うことだ。」という言葉も残しています。

実際に彼が原爆投下に対する謝罪の気持ちを、自らの手で被爆者のための家を建てるという行動をもって示したのが、この言葉に裏付けられています。
若い皆さんには、言葉よりも行動を起こす勇気を持ってほしいと伝えたいです。もちろん、自発的に歴史を学び、知り、その場所に行き、見て、聞くことも重要です。
過去にあった出来事を自分の心で感じて、寄り添い行動へ移すことができたら、本当に力強いものになると思います。もしも理解や気持ちが追いつかない状態でも、行動を起こした後に自分の気持ちに問い返すという形でもいいと思うのです。

一人からでも行動することの勇気と周りの人たちが仲間となった時の力強さを信じ、希望をもって平和を築いていって欲しいです。

2018年3月 取材