ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 9
2017.6.13 up

私は、留学生たちに心から感謝しています。本当に助けられてばかりでした。 彼らから慰められ、また、勇気を頂きました。

栗原 明子Meiko Kurihara

 被爆者

栗原 明子さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
アジアの留学生たちと原爆投下後の8月7日から14日まで広島文理科大学で過ごされた栗原明子(91)さん。
当時の様子や留学生との関わりについてお伺いしました。

目次

  1. 8月6日当日のこと
  2. 留学生と過ごした7日以降のこと
  3. 今伝えていきたい想い

8月6日当日のこと

まず、栗原さんが被爆された時の年齢を教えて頂けますか?

栗原 明子さん

当時、私は19歳で、広島女学院専門部2年保健科に在籍していました。
実家は爆心地から900メートルほど離れた大手町7丁目にありました
四人家族でしたが、その場所に住んでいたのは、父と私だけでした。
妹は空襲警報が鳴ると、恐れて部屋の押入れの中へ入ったきり出てこなくなるような人でしたので、知り合いを頼りに田舎の方へ、母と一緒に疎開していました。

原爆投下後に留学生の方と一緒に過ごされたそうですが、以前から面識はあったのですか?

はい。フィリピン・ビルマ・中国など出身国が様々な9名の方がいらっしゃいました。
昭和18年に5人、昭和19年に4人が来られて、広島文理科大学で勉強した後に帰国をする予定だったそうです。

留学生がいらっしゃった「興南寮(こうなんりょう)」は実家の近くの大手町8丁目にありました。「萬代橋(よろずよばし)」という橋があり、萬代橋を正面に見た時に右側が家、道路を挟んだ左側が留学生の寮でした。

外に出ると、よく留学生を見かけました。でも、その頃は男の人と歩いてもいけないし、話してもいけない時代でしたので、声をかけることはありませんでした。
まさか、原爆投下後に彼らと一緒に過ごすことになるとは夢にも思いませんでした。

8月6日当日は、どちらにいらっしゃいましたか。

栗原 明子さん

学徒動員として爆心地から6キロほど離れた向洋(むかいなだ)という場所で、旋盤工として働いてました。
原爆が投下された時、天井は吹き飛び、窓ガラスも割れて指にガラスが突き刺さりました。
はじめは機械が爆発したのだと思っていました。
外へ出たら大きなきのこ雲が視界に入ってきて、その時もまだ原爆とはわからずガスタンクの爆発なのではないかと、皆で話していました。
雲は下のほうが白くて、それでいて黒があって、上の方はピンクに光っているような、今まで見たこともない不気味な光景でした。

ご実家が爆心地の近くだったと思いますが、その後、家には戻られたのですか。

8月6日の市内は火の海に包まれて入ることができず、7日の夜が明ける前に父を探しに戻りました。市内へ入った時も残り火があり、広島駅近くから眺めた景色は、ずっと先まで何にも無い状態でした。

クリスチャンであった私は「神様、助けてください」と、祈り続けていました。
死体と怪我人があふれ、跨いで通ることもありました
普通だったら死んだ人や怪我人を跨ぐなんて出来ないのに、その時は心が異常になっていたように思います

大きな石の門を頼りに、やっとの思いで我が家にたどり着きましたが、そこに父の姿はありませんでした
医者であった父のことだから、怪我人を救うためにどこかの救護所にいる可能性もあるのではないかと思い、我が家のコンクリートで出来た防火用水に「メイコ ゲンキ」と燃えかすの木切れで書き残しました。

その後、日本赤十字病院に行って、腸が飛び出た人、目の玉が無い人もいる中で、父をひたすら探しました。しかし、結局最後まで父を見つけることはできませんでした。

栗原 明子さん

後から聞いた話ですが、父はあの日、県病院で保健婦さんに勉強を教えている時に原爆に遭い、梁の下敷きになって亡くなったそうです。
傍にいた看護婦さんが引き出そうとしてくださったのですが「あなたも、もう逃げなさい、逃げて、もし家族に会うことがあったら、あとはよろしく頼むと言ってくれ。」と言い残し、周ってきた火に包まれたそうです。

栗原 明子さん

父は見つからず、帰る場所もなく途方に暮れていた時、偶然にも広島文理科大学前で、学校の先輩と再会しました。嬉しくて、抱き合って泣きました
今晩行く場所がないと告げると「文理大の校庭に仲間がいるからいらっしゃい。」と誘ってくれました。
そこで、留学生と出会ったのです。

留学生と過ごした7日以降のこと

8月6日に留学生の方が広島にいらっしゃったという事実を知らない人は多いと思います。

原爆が投下された時、留学生たちは学校にいた人と寮に残っていた人がいたそうです。
寮に残っていた留学生たちは火が迫ってきたので、近くの土手にうずくまっていた30人ほどの女学生を2台のいかだに乗せて、自分たちは川に入り、いかだを支えて、必死で逃げたと仰っていました。
ただ、川の中まで舐めるように火が入ってきて、いかだの上に乗っていた女学生たちは悲鳴をあげながら一人二人と流されていき、本当に辛かったそうです。

広島の人たちを助けながら、逃げられたのですね。

興南寮にいる時に、近所の人たちが彼らに差し入れをしたり、助けたりしていたようなんですね。

そういう交流があったからこそ、未曾有の出来事になった時に「助ける」という気持ちが生まれたのでしょうか。

ええ、そうでしょうね。一緒に野宿をしていた時も、本来なら私たち日本人が彼らを慰めてあげなくてはいけないところを、反対に私たちが励まされていました
持っていたバイオリンで「ブンガワンソロ」や「タランブラン」など故郷の歌を弾いてくださったり、私たちはそれにあわせて日本の歌を歌ったりして、お互いに慰めあったのを覚えています。

夜は校庭に蚊帳をつって寝ました。大学の校庭に植えてあった収穫期前の親指大のさつまいもを鉄カブトに入れて、石でかまどをつくって、皆でゆでて食べていました。

どれくらいの期間、一緒に過ごされたのですか。

私たちは、8月7日から14日までの一週間、一緒に生活をしました。
7日の夜に大学の屋上に上がって見たきれいな星空は忘れられません。

8日には、私の家の防空壕に埋めていた食材を皆で掘り起こしにいきました。
やっと食料にありつけると思っていましたが、出てきたのは焼け焦げて変形した茶釜と真っ黒な灰でした。爆心地から近かったため、何千度という温度の中でほとんどが炭化してしまったのです。

そこで偶然、私と父を探しに来た母と再会しました。
留学生たちに囲まれている私を見た時、状況が呑み込めず、幽霊じゃないかと思ったそうです。

その夜から、キャンプ生活に母が加わりました。
留学生は、お家のお母さまと私の母を重ねたんでしょうね。
嬉しそうに一緒になって「お母さん、お母さん」と呼んでいました。

14日に別れた後も、留学生の方々と交流はあったのでしょうか。

栗原 明子さん

はい。彼らに帰国命令が出された14日以降も留学生の何人かとは、文通でやりとりをしました。そのお便りは、現在広島大学へ納めています

放射能の影響は留学生の方にもありましたか。

栗原 明子さん

オマールさんというマライから来られた方が、京都へ向かう汽車の中で具合が悪くなり、9月4日に亡くなられました。
京都市左京区にある圓光寺(えんこうじ)には、オマールさんの故郷の方角を向いて、お墓が建っています。
他の留学生も、私も、その後、原爆症に苦しめられました。

今伝えていきたい想い

最後に、栗原さんが今伝えていきたい想いを教えてください。

私は、留学生たちに心から感謝しています。
本当に助けられてばかりでした。彼らから慰められ、また、勇気を頂きました。

留学生たちに「あなたたち、こんな大変なことになって悪かったわね。」と謝っても「それは仕方のないことですよ。」と返してくださいました。決して日本のことを悪く言うこともなく、昼間はけが人の手当てをされ、本当によく働かれました

どんな時でも人に優しく強くあること、人と人との争いはしてはならないこと。
出会った留学生、そして原爆という残酷な体験より、多くのことを学び得たように思います。

戦争は人殺しに他なりません。地球上にあってはならないことです
若い人も小さい子どもたちも、大人もみな巻き込まれてしまいますし、目に見えない心までもひどく傷つけてしまいます。
平和であるというのは、本当に大事なことだと思います。
核を作る、核を保持することがいかにいけないことか、私の経験から多くの人たちの心に響いて下されば幸いです。

ありがとうございました。

2017年6月 取材