ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 15
2019.5.22 up

「これなら私も平和活動に携われるかも。」というようなきっかけをつくる人に、今自分が教えている子どもたちにもなってほしいと思います。

今田 絵美Emi Imada

広島市 小学校教員

今田 絵美さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
JICA海外協力隊として2年間エジプトで教育事業に携わっていた広島市小学校教員の今田絵美さん(34)。

海外で講演を行った際のエピソードや広島の平和教育についてお伺いしました。

目次

  1. 祖母を被爆者に持つ第三世代の想い
  2. インドの慰霊祭に参加した時の話
  3. 海外で講演をする際に心がけていること
  4. 広島で行われている平和学習について
  5. 広島の子どもたちに向けて

祖母を被爆者に持つ第三世代の想い

本日は広島市で教員をされている今田絵美さんにお話をお伺いしようと思います。
今田さんよろしくお願いいたします。

よろしくお願いします。

今田さんとは、2019年2月にJICA海外協力隊である友人を通じて渡航先のエジプトでお会いしました。
そこで拝見させていただいた平和学習のスライドがとても素晴らしかったので、もっとお話をお伺いできたらと思いインタビューのご依頼をさせていただきました。

ありがとうございます。
久保田さんとエジプトでお会いした時に、協力隊の任期を終えて帰国する直前でしたので、とてもいいタイミングでした。

今田さんの現在のお仕事を教えて頂けますか。

今田 絵美さん

エジプトでお会いした際はJICA海外協力隊でしたが、渡航前と現在は広島市内の小学校の教員をしています。

今田さんのご出身はどちらですか。

今田 絵美さん

広島です。

広島出身ということは、小さい頃から平和学習を受けてきたと思うのですが、現在の活動につながる想いはいつから持っていたのでしょうか。

小学生の時、児童会の代表として校内で行われた平和の集いで、全校に向けてあいさつをしました。
あいさつの中で「被爆から50年」という言葉を発した時に「そうか。50年ということは、原爆のことを直接知っている人がこれから少なくなっていくな。」と、小学生ながらに危機感を覚えたのがはじまりです。
私の祖母は被爆者で、自分が幼稚園の時に亡くなりましたが「そういえば私のおばあちゃんも被爆しとったよね。そうしたら私にも関係があるよね。いつか大人になっても原爆のことは伝えていきたいな。」という気持ちはその時から持っていました。
大学生になり県外へ出た時、広島市でやってきたような平和学習がなく驚きました。
広島に戻ってきて教員になってからは、子供たちに向けて過去の出来事を自分事として考えることができるような平和学習作りに取り組んでいます。

おばあさまが被爆者だったということですが、被爆体験を聞いたことがありましたか?

ありませんでした。むしろ家族だから悲惨な体験を気軽に聞けないというか・・・遠慮があったのだと思います。
祖母が亡くなってずいぶんと経った後、わたしが28才の時に、初めて父の姉(叔母)から被爆体験を聞きました。
祖母は、南区にある広島陸軍被服支廠という建物の中で被爆したので、大きな被害はなく無事でした。しかし原爆後に身を寄せた北広島町の親戚の家で「広島の子」と言われて差別を受けました。
第一世代は「次の世代に原爆のことを伝えよう」という想いよりも「原爆のことは怖いから忘れたい。目の前の生活をどうにかしなくてはいけない。差別をされるから言いたくない。」という状況だったのではないかと叔母の話を聞きながら思いました。
継承と言われ始めたのはわたしが子どもの頃、3世代目になってからではないでしょうか。
原爆を体験した人たちの中には「そもそも話したくない、思い出したくない」と思っている人が多かったのではないでしょうか。

インドの慰霊祭に参加した時の話

おばあさまの体験はどういったきっかけで聞くことになったのですか?

今田 絵美さん

2013年に、インドで行われていた原爆の慰霊祭に参加したのがきっかけです。
新聞で慰霊祭の開催について知り、海外でも原爆の慰霊祭が行われていることに衝撃を受けてツアーに応募しました。
渡航前、主催者の方に祖母が被爆していると伝えると「ぜひ現地で、おばあさまの被爆体験についてお話をして頂けませんか。」と依頼を受けたのがきっかけで、祖母の体験を知っていた叔母に話を聞きました。

インドの慰霊祭はどういったものでしたか。

私はインド南部のケララ州のパーラーという街と、ニューデリーを訪れたのですが、インドの南部の私立高校では、ヒンズー教もキリスト教も仏教も尊重し、宗教を超えて原爆の慰霊祭をしていたことに驚きました。

そこでは、生徒が歌を歌ったり、聖書の一節を披露したりしていました。広島や長崎のことをよく勉強しており、写真資料も豊富に用意されていました。
ニューデリーでは、漫画『夕凪の街 桜の国』の原画展が行われており、そこで原爆についてプレゼンテーションをさせていただきました。

講演後「広島は今復興しているの?」「放射線の影響って実際どのくらいなの?」「原爆にあったおばあさんは差別されていたけど、3世であるあなたはどうなの?」というような質問を受けました。
質問の中には「今の日本は今後も原子力を使い続けるかもしれない。あなたはどう思うのか。」という現代の問題につなげたものもありました。

たくさんの質問があったのですね。自分の出した答えが、広島や日本代表のような形で相手に伝わるかもしれないと思うと、言葉に迷いませんでしたか?

私の場合は、小学生の頃からいつか誰かに原爆のことを広島代表のように話さなければいけない日が来るかもしれない、という覚悟がどこかであったのだと思います。
あくまで自分の意見として、なるべく相手にはっきり伝えるように心がけました。

インドで一番印象的だったのは高校生からの質問です。
「アメリカでは年間五万人の人が交通事故で亡くなっている。原爆では十四万人の人が亡くなったというけれど、その三倍じゃないか。どうして、今も七十年前のことをそんなに言い続けなければいけないのか?」というようなことを聞かれました。

その時今田さんはどう答えたのですか?

彼には「数で見ないでほしい。」と伝えました。
「14万人の中に、あなたの大切にしている家族や友達がいたらどうしますか。」「そのうちのたった1人にも大切な家族や友達がいたということを考えてみてください。」というように、想像力を働かせて考えることをお願いしました。

また「原爆の怖さというのはその瞬間だけではなくて、放射能の影響や差別といったその後も続く問題を含んでいるのです。」ということを佐々木禎子さんの話を踏まえてお伝えしました。

海外で講演をする際に心がけていること

今田さんは今までどれくらいの国で講演をされてきたのですか。

今田 絵美さん

エジプト、インド、それからカンボジアでお話をさせていただきました。
「郷に入っては郷に従え」ではないですけど、渡航前にその国の歴史や宗教、文化についてはかなり勉強して行くようにしています。

スライドの種類が沢山ありますが、毎回講演のたびに作り変えていらっしゃるのですか。

今田 絵美さん

はい。講演を行う国や聞いてくださる対象によって作り直しています。

講演される言語は英語ですか?

今田 絵美さん

一部、英語やアラビア語です。今までの講演は幸運にも毎回日本語通訳の方がついてくださったので、大部分は日本語で話しています。
私の英語だと細かいニュアンスが通じないことがあるので、そこを汲みとってくださる方がいるのは、大変ありがたいことです。
エジプトでは、冒頭をアラビア語で話した後に「ここから日本語になりまーす。」と言ったら笑いがおきましたよ。

スライドの内容を組み立てるときに気を付けていることがあれば教えてください。

現地の人たちの共感を得ることを大切にしています。例えばエジプトの人たちは家族をとても大切にしているので、私の家族の話、祖母の話を具体的に話すようにしています。祖母の写真を見せると「原爆にあってもおばあさんは生きていたんだね。」と驚かれましたが「そうだよ、生き残って私に命をつないでくれたんだよ」と答えました。
原爆投下の内容を具体的に知らない人たちに向けては、被爆の実相をひとつひとつ丁寧に伝えることを心掛けています。また、イスラム教の国では、肌が露出した生々しい写真は使わず、被爆者の絵を使って説明しています。

エジプトの人たちの反応で印象に残ったエピソードはありますか?

意外だったのが、被爆したのは人だけじゃなくて、樹木も被爆した。という話に興味を示した人が多くて「花や木が被爆したにもかかわらず、生き延びて次の世代に命をつないでいるのがいいね」と言ってくれました。

被爆樹木から共感が生まれたのは興味深いですね。今田さんの講演に集まった人たちはどんな人たちでしたか?

日本に興味があるエジプト人で20代から50代の方々が50名ほど集まりました。
男女比は6:4くらいで、女性が多かったのですが、意外と男性も多くてびっくりしました。
今エジプトでは日本の教育プログラムを導入した学校が開校したばかりで、日本人のことをすごく尊敬しているんですよ。

広島で行われている平和学習について

広島で行われている平和学習の内容について県外の方は知らない人が多いと思います。
具体的にどんなことが行われるのか今田さんがご存知の範囲で教えてください。

広島市内の多くの学校では、小学校1年生から高校3年生まで平和学習を行う時間が年間スケジュールの中で設けられています。
私が今まで携わった小学校では、平和集会を夏休みの登校日に設け、登校日までに各学年で原爆について学び、折り鶴を折って代表の児童が平和公園などに献納する、というのが大体の流れでした。
また「平和ノート」という広島市独自の学習教材を活用しています。
ノートを使って年間最低3時間以上平和学習を行うのですが、教材がつくられた時にたまたま平和教育の担当で、配属校のプログラム作りに携わりました。

小学生に向けて原爆について話す際に今田さんが心掛けていることはありますか?

小学校の平和学習で主に行われている方法は、アニメを見たりして情緒的に訴える方法です。
私は、もう少し具体的に同い年の人たちが当時どんな生活をしていたのかということを生徒に知ってほしくて、衣食住にスポットを当てて話すことを心がけています。

例えば、戦時中小学校1,2年生は親元で過ごし、3年生から6年生は集団疎開に行っていて、疎開中は自分たちの食料を畑で育てていた、という話や、今はバランスのとれた食事をしているけど、当時は畑で取れたものしか食べられなかったし、買い物も満足にできない配給制だったんだよ、という話をしたこともあります。
あとは、当時の服装ですね。自分の住所や名前や年齢が緊急時に備えて書かれたもんぺや国民服といわれる服を着ていて、防空頭巾というものがあったんだよという話をしました。

今の生活と当時の生活を比較する方法は、小学生の興味をひきやすいかもしれませんね。

そうですね。「身近にあるもの」という視点でいうと、直近で勤めていた牛田小学校では、小学校の周りに残っている戦災の遺跡を利用した平和学習に取り組んでいました。
牛田という地区は爆心地から離れているにもかかわらず多くの戦跡が残っている場所です。「東練兵場」という兵隊さんの訓練所や、今はもうなくなってしまいましたが「ピカドン竹やぶ」と呼ばれている原爆から逃げてきた人の避難場所だった竹藪などがあって、学年ごとに戦跡を巡るフィールドワークを行いました。

この資料の中にある写真は「桜土手のお地蔵さん」と言われている牛田にあるお地蔵さんです。
建物疎開中に原爆で亡くなった息子を偲んで、お父さんがお地蔵さんを作ったと言われています。今でも近所の方々が管理しておられるそうです。お地蔵さんのエピソードは絵本にもなっています。

この写真は安楽寺というお寺で住職さんが原爆についてお話をしてくださったときの写真です。お寺の中には被爆した大イチョウが今でも力強く立っているのですが、イチョウには被爆樹木であることを示す黄色いプレートがかかっています。子どもたちは黄色いプレートの意味を知り、広島市内には他にもたくさん被爆樹木があるということを学びます。

自分たちが住んでいるところに当たり前にあるものが、過去とつながっている。そして、地元の人たちが場所を守っているということを、平和学習を通して子どもたちに伝えることができたらと思っています。

確かに、伝え続けないと、自分たちが住んでいる土地にどんな歴史があって今があるのか、ということは忘れられてしまうかもしれませんね。

今田 絵美さん

そうですね。子どもたちがよく遊んでいる牛田公園は、原爆で亡くなった身寄りのない人たちが集めて焼かれた場所でした。そこには慰霊碑が建っていて、慰霊祭が毎年行われていますが、知らない人たちも増えてきています。
「まず知って、学び続けよう。伝えよう。」というスローガンのもと、平和学習作りに取り組んでいます。

広島の子どもたちに向けて

今の広島に住んでいる子どもたちの平和学習に対する姿勢は、教員の立場から見ていかがですか?

今田 絵美さん

広島の子どもたちは当たり前に勉強をすると思っているので、疑問を持たずに、いい意味でスポンジのように吸収しているイメージです。
彼らが大人になって海外に出た時、広島出身だと言うと原爆について聞く人が出てくるかもしれません。
その時には、平和学習を受けてきた経験を思い出して、自分の意見に自信をもって発言してほしいと思います。
「データとしての情報ではなく、あなたの言葉で話が聞きたい」と望む人が海外では多いと思うので。

広島市も今、次の世代への継承を目的として被爆体験伝承者の養成を行っていますよね。

今田 絵美さん

平和活動に限らず何かに携わるきっかけって、人との出会いが大きいと思うんです。
原爆の事実を伝えたり戦争や平和について考えたりする場所をつくっている人たちはたくさんいると思いますが、どんな方法であれ、人の出会いをつくる行動は尊いことであると私は思います。
「これなら私も平和活動に携われるかも。」というようなきっかけを作れる人に、今自分が教えている子どもたちにもなってほしいと思います。

ありがとうございました。

2019年5月 取材