ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 11
2017.6.25 up

歴史はつながっていて、決して過去と今は切れているわけではありません。 つながっていることを理解して、次へつないでいくことが大切です。

SさんS san

医療ソーシャルワーカー

Sさんさん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
日本赤十字社・広島原爆病院に25年勤務し、医療ソーシャルワーカーとして被爆者の心の問題や生活問題に向き合ってこられたSさん(72)にお話を伺いました。

目次

  1. 医療ソーシャルワーカーとしての仕事について
  2. 8月6日、9日だけが原爆の被害ではない
  3. 被爆者Kさんのお話
  4. 一人の人間として被爆者に共感できるか

医療ソーシャルワーカーとしての仕事について

医療ソーシャルワーカーとして働き始めたのはいつからですか。

Sさん

昭和43年、23才の時からです。
心と生活に悩む方の相談に応じて社会復帰をするお手伝いをしたいという思いから、広島原爆病院に就職しました。

具体的なお仕事の内容を教えてください。

Sさん

原爆が投下されて12年後の昭和32年に、原爆医療法(原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)が施行され、被爆者手帳を持つ人が法律に基づいて受診が出来る原爆病院が開院しました。
その後、昭和43年に被爆者の援護を目的として原爆特別措置法という法律(原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)が施行されました。
被爆者に手当てが支給されるようになったのです。
法律による保護を受けるためには医者の証明書が必要でした。
私の最初の仕事は、その資格があるかどうかの振り分けを行う相談窓口の仕事でした。

国の補償を受けるため、被爆者の方が沢山窓口に来られたのではないでしょうか。

Sさん

はい。広島は原爆投下後、約20年は次々と被爆者が亡くなり、生活の再建もままならない状況でした。
放射能、熱線、爆風による体への被害は近距離の人ほど被害が大きく、生活基盤も失われ、今までの仕事が出来なくなった方が大勢いらっしゃいました。
職場や家族を失うなどして生活基盤が根こそぎ奪われた中で、被爆者たちはこの原爆特別措置法に大きな期待を寄せました。補償や援護を求めて、大勢の方が病院へ殺到しました。

手当てを受ける条件は、どのようなものですか。

大きく分けると、原爆放射能による疾患があること、年齢制限、所得制限といった3つの条件です。
毎日50人近い方が相談室に来られましたが、ほとんどの方は条件に適合せず、帰っていただかなければなりませんでした。
「戦後23年も経って、なぜこのような状況が続いているのか。私は被爆者の方々に何ができるのか。何も出来ないじゃないか。」という無力感に日々苛まされていました。

このような状況を何とか乗り越えなければならないという思いで、昭和48年に被爆者団体である日本被団協で相談員をしている方や東京・広島・長崎の医療機関などで相談員として働いている方々に声をかけて「被爆者問題ケースワーカー研究会」を立ち上げました。

8月6日、9日だけが原爆の被害ではない

研究会の内容を詳しく教えて頂けますか。

Sさん

まず、一人一人違う被爆者の体験をどのようにとらえていったらいいのかを考え、原爆被害の全体像を把握するために、被爆者の「原爆以前の暮らし」「当日の被害」「その後の暮らし」「心の問題」、そして「社会や制度の動き」を整理してまとめた事例集を作りました。

今日、ご持参いただいた資料の中に「社会の動き、暮らし、心の年表」というものがありますね。

Sさん

この資料は、一橋大学で社会調査を専門とされていた(故)石田忠先生から教えて頂いた手法をもとに作成しました。調査では被爆者の「いのち、くらし、こころ」を関連付けて把握していきます。
体は無傷でも放射能の影響でその後亡くなられた、といった、「いのち」の視点。
8月6日以前はどんな生活をしていて、家、仕事場、家族構成は被爆後にどう変わったのか。社会の動きはどうだったのか、という「くらし」の視点。
そして、被爆者自身が出来事をどう受け止めたのかという「こころ」の視点です。

Sさん

基本は心の部分を見ていきます。
8月6日、9日だけが原爆の被害ではありません。被爆後、悩み苦しみ精神的にすさんだ人生を歩まざるを得なかった方、社会制度に限界があり、救済されなかった方もいます。
その一方で誰かに助けられて乗り越えた方がいるのも事実です。社会の動きと絡めて被爆者の心はどのように変わってきたのかを分析してまとめていきました。

原爆が投下された当日のことだけが注目されがちですが、このように「いのち、くらし、こころ」の3つの軸で被爆者の姿を見ていくと、ひとりの人の人生に、8月6日の出来事が、大きな影響を与えているのが見えてきます。

調査の手法を参考にさせて頂いた石田先生は、原爆被害に翻弄されている方や、向き合って闘われている方たちの中に入り、ご本人も苦悩されながら調査をされてこられました。
あの日、人を助けられなかったことに対する罪の意識をずっと持ち続けている被爆者が多くいる中で、それは原爆投下によることで、自分自身に責任のある事ではない。原爆と向き合って抗って、罪の意識を克服していく。という心の変化や過程を含めて、掘り下げて調査をされました。
原爆被害は当日だけでなく今日まで続いています。一つ一つのケースを通してそれぞれに丹念に向き合うことで被害の全体が見えてくると思います。

被爆者Kさんのお話

Sさんご自身もたくさんの被爆者のご相談を受けて来られたと思いますが、その中で特に心に残っている方はいらっしゃいますか。

Sさん

Kさんという方がいらっしゃいます。アルコール依存症からか、肝炎となり、私が勤めていた広島原爆病院に入院されたのがきっかけで出会いました。 Kさんは生活保護費を受け取るために、福祉事務所にお金を取りにいかなければならないけれど、外出が出来ないということで相談に来られ、私から保護費の受け取りを代行したところから相談援助が始まりました。

Sさん

出逢った時のKさんは42歳。13歳の時に被爆され、顔はケロイド、左目は悪性腫瘍による義眼でした。
一目でひどい被害を受けられたことがわかる状態でした。
代理で保護費を受け取りKさんに渡すと、非常に喜んで下さり、ぽろっと「僕は劣等感の固まりなんです」と仰いました。しかし、保護費をお渡ししたその日、Kさんは無断外出し、家に帰られてしまいました。 ショックでしたが「きっと何かあるのだろう。何とか立ち直って欲しい。」という思いで彼に手紙を書きました。

手紙にはどのような内容を書かれたのですか。

「ケロイドから想像するにひどい被害を受けられたのでしょう、被爆から今日まで辛い人生を歩まれたと思いますが、それだけ大変な思いをされたからこそ、多くの被爆者の苦しみや悲しみ、辛さを分かっておられるのではと思います。それをばねにして、これから前向きに生きていってほしい。」という内容の手紙だったと思います。

Kさんは亡くなられる前まで、その手紙を大切に保管されていました。つらい時には必ず読むとも仰っていました。それほど彼は社会からも疎まれ、家族からも非難され、原爆の被害を丸ごと受け止め自分を認めてくれる人と出会えなかったのではないか。と感じます。

その後、よく相談室に来られるようになり、そこで初めて自分の被爆体験を話してくれるようになりました。
彼は、被爆前まではやんちゃな子供で、祖父母にも跡継ぎの長男として可愛がられて大切に育てられたそうです。Kさんが最終的に立ち直り、素晴らしい生き方をするように変わったのは、彼の中にかつて両親祖父母から受けた愛情に満たされていた経験というベース、そして多くの心ある人々の支えがあったからではないかと思います。

8月6日、Kさんは鶴見橋のあたりで建物を壊す作業に従事していていました。
朝の点呼の時にB29を目の前にし落下傘が落ちるのを見ていました。前方からもろに熱線を浴び、ひどい火傷を負いました。実家は舟入で材木屋を営んでいましたが、家は全部焼けてなくなり、宮島に避難し母親の看病を受けたそうです。しばらくたって傷は癒えましたが、ケロイド状の傷跡は残りました。そのせいで学校に行きたくなくなり、生活が狂い始めました。駅前でうろうろして博打をしたり、たびたび警察のお世話にもなったりしたそうです。
放射能の影響で体力が落ち、仕事もまともにできず、家のお金を持ち出しては遊び歩くという生活で、とうとう親も家に入れなくなったと仰っていました。

そんなKさんがSさんと出逢い、お手紙をきっかけに心を開かれていったのですね。

Sさん

ある日、8月6日の体験を修学旅行の生徒に話してほしいとKさんに依頼をしました。
初めは躊躇されていたので一緒について行き、彼が話す被爆体験の補足をしていました。
話を聞いた学生から励ましの手紙をもらい、勇気づけられたのだと思います。
その後も証言を続けられ、他の被爆者の方の話も聞かれ、困っておられる被爆者の家を訪問されるまでになりました。

Sさん

Kさんは被爆者として生きることの意味を自分の中で獲得されたのだと思います。
そのうち、語るだけでなく、自分史も書き始めました。
働かれるようになり、生活保護を辞退してアルコールも絶たれました。
その後、結婚し、今まで勘当状態だった両親や兄弟も彼の変化に気づいて受け入れるようになりました。

Sさん

最後は65才で亡くなられましたが、存命中は自分史の続編をベッドでさらに詳しく書かれていたそうです。

Sさん

Kさんの話を聞いた東京の女性の方からのこのようなメッセージを頂いています。
「人間を不幸のどん底に落とすのも人間なら、生きる希望を与えるのも人間なのだとつくづく考えました。それはKさん自身の努力もあったと思いますが、彼を支えた周りの人たちとの関わりの中で、変わり、立派な生き方をされたのだと思います。」

一人の人間として被爆者に共感できるか

被爆者の方が自身の体験と向き合う過程をご覧になって、Sさんが感じられたことを教えて頂けますか。

Sさん

被爆者の方は、このようなことが二度と起きてはいけないという願いを持って体験を残そうとされています。
一方で、書いたり、語ったりする過程を経て、自分の人生をもう一度見つめなおし、自身が抱えている問題に向き合っているとも感じます。
何らかの手段で形に残していくことは、被爆者自身にとっても意味のあることなのではないでしょうか。

最後に、若い人たちが被爆者の方々と向き合う姿勢で「いのち、くらし、こころの3つの視点から考える」こと以外には、どのようなことがポイントになるとお考えですか?

Sさん

被爆者の話に一人の人間として共感できるかどうか、が重要だと思います。
歴史はつながっていて、決して過去と今は切れているわけではありません。
つながっていることを理解して、次へつないでいくことが大切です。

被爆者が遺言のように伝えていかれる体験から学び、この中に私たちが人間として感じることができ、何を教訓にしていくかを考えることができるならば、受け継いでいけるのではないかと思います。

貴重なお話を、ありがとうございました。

2017年6月 取材