ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 2
2015.6.5 up

平和な時代に生まれて生きてきた人が、未来に向かって行動してくれることを願います。

岡田 恵美子Emiko Okada

 被爆者

岡田 恵美子さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
岡田恵美子さんは8歳の時に爆心地から2.8キロ離れた自宅で被爆。
当時12歳だったお姉さんは建物疎開に出たまま、今日まで帰ってきていません。
現在、語り部として様々な場所で講演をされている岡田さんにお話を伺いました。

目次

  1. 被爆時の状況
  2. 被爆体験を語り始めたきっかけ
  3. 伝えたい想い

被爆時の状況

戦時中の日本はどのような様子でしたか?

岡田 恵美子さん

軍事教育がしっかりしていて、私が男の子だったら軍隊に入りたいと思うくらい、当時、兵隊さんというのは世の中で素晴らしいものでした。
ラジオのニュースで東京大空襲、大阪大空襲、四国、九州まで被害が出ていたことは知っていましたが、日本は戦争に勝っていると流していたものですから、私たちは勝っているんだと思い込んでいました
ただ、ほとんど武器らしいものは周りにありませんでした。

8月6日当日のことを教えていただけますか。

岡田 恵美子さん

爆心地から2.8キロ離れた場所で被爆しました。
8月6日の朝、空襲警報が解除されたあと母と弟と朝食をとっていると、外がピカーっと光って飛ばされました。はじめは何が起きたのは分かりませんでした。
気づいたら自宅は傾いていて、外に出たら隣近所のお家から遠くまで、みんな家が傾いていました。
しばらくして広島中に火事が発生し、火が追いかけてくるものだから逃げました
姉は、建物疎開に出て行ったきり、今日まで帰ってきていません。

中心部は火の海だったと聞いていますが、その中を逃げられたのですね。

岡田 恵美子さん

はい。火に追われて逃げている間、全身真っ赤に火傷した死体を見て足がすくみました。
周りは誰かわからないくらい身体が膨れ上がっていて、髪の毛は逆立ち、多くの人たちは服を身につけていませんでした。
生き残っているひとたちは皮膚が垂れ下がったり、肉がぶら下がったり、爆風と熱風で目玉が飛び出ている子供もいました。
広島平和記念資料館に展示されている人形は衣服をまとい、人間らしい表現をしていますが、私が見たのは、実際、まったく人間らしい姿では無かったです。

岡田 恵美子さん

爆風で倒れた建物の下敷きになる人もいて、子供の目の前で母親が焼かれて死んでいくものだから、子供は「助けて、助けて」と泣いていました。
目の前で人が焼け死んでいくのをたくさん見ました
火がおさまったときには、広島から瀬戸内海の青い海が見えるくらい、何も無くなっていました
火事のあとは、大人も子供も多くの人が灰になっていました。
私は、夕焼けが大嫌いです。
夕焼けが真っ赤に空を染めたら、今でも8月6日のことを思い出して胸が苦しくなります。
目の前で助けてあげられずに、誰も助けられる状況ではなく、私も置いて逃げた方なのです。
それが現実でした。

被爆後、岡田さんの身体に放射能の影響はあったのでしょうか?

岡田 恵美子さん

当時は放射能がばらまかれたのは知りませんでした
私は弟と東練兵所にいたのですが、歯ぐきから出血し、髪の毛が抜けて、体がものすごくけだるく死体と一緒に横になっていることが多かったです。
後に、放射能の影響で血が少なくなる「再生不良貧血症」という病名がつきました。

原爆で親を亡くした子どもたちもたくさんいたと思うのですが。

岡田 恵美子さん

戦争が終わって、疎開でお寺に預けられた子供たちがたくさん原爆孤児になりました
広島の中心部は全滅しており、孤児たちは焼け野原で家族を捜しました。
守ってくれる家族がいないものだから、毎日お腹をすかしており、人のものを奪わなければ生きていけません。戦争が終わってから生き残ったひとは、放射能で肉体的・精神的に被害を受けました
何も解決しない、そんな生活が5年くらい続いていました。
原爆孤児は、大人の手先になったり、米・野菜を奪い、靴磨きで稼ぐひともいました。
指示する大人は、アルコールを飲んでいました。
子供より、大人の方が弱かったのかもしれません。自殺をするひともいました。
子どもたちは学校に行けず、計算・読み書きができないので働こうと思っても就職できない。
一部、関東や九州からヤクザが入ってきて、食べ物を渡して、ピストルも渡していた。
今でも、孤児の人たちとは、出会ったり挨拶するけれど、みんなそっと静かに生きています。

被爆体験を語り始めたきっかけ

岡田 恵美子さん

岡田さんは現在語り部として講演をされていますが、被爆体験の証言をはじめたのはいつからですか?

30年前、バーバラ・レーノルズというアメリカ人女性と出会ったことが最初のきかっけです。
初めて被爆者としてアメリカへ渡り、集会所、子供の日曜学校、学校、教会で講演を行ったのですが、聞いてくださった方は最後に必ず「日本がパールハーバを攻撃したのが先だった。」とおっしゃいました。

そのとき、主催者のバーバラが「戦争は、暴力と武力ですぐ始めることが出来るけれど、平和は人と人が向き合って話し合い、語り継ぐことが原点だ。広島の人間と語り合うべきだ。」と言われたんですね。

言葉だけはみんな「世界平和」とか「核廃絶」とか簡単に言えますが、世界を平和にするためには、まず身近な人と向き合って仲良くならなければいけないと思い、証言を続けています。

「身近な人と向き合い仲良くなる。」大事なことですね。

インド、パキスタンに語り部として訪れた時、子供たちがインドとパキスタンと日本の旗を書いてくれて「日本の若い人と友達になりたい。」と言ってくれました。
私は、そうか、若い人が世界に向かって手をつなぎ、行動を起こしてもらうことが必要なのだなと思いました。
被爆者が被爆体験をいくらお話したとしても、これは時間の問題ですから。

伝えたい想い

過去から未来に向けての想いを感じました。
最後に、若い世代に向けて伝えたいことがございましたらよろしくお願いします。

岡田 恵美子さん

平和な時代に生まれて生きてきた人が、未来に向かって行動してくれることを願います。
私が、今回の企画(第三世代が考えるヒロシマ「」継ぐ展)に興味を持ったのはそこです。
未来に向かって、あなたたちには可能性があります。
若さ、頭の良さ、行動力の機敏さがあります。
考えてほしいのです。
核兵器は過去の話ではないということ認識してください。
ロシアが一番所持していて、二番目がアメリカ、次に中国、イギリス、フランス、インド、パキスタン、北朝鮮、世界にはいまだ16300もの核兵器があるのです。
これから未来に向けて、広島と東京だけでの発信で終わって欲しくないです。
いろんな場所から、世界に向けて発信して欲しいと願っています。
こういった出会いに託したい。
ご自身が体験したこと、見聞きして感じたことを、自分の言葉で伝えて欲しいと思います。
それだけです。

2015年6月 取材