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ヒロシマの記憶を継ぐ人
インタビュー

No.11

原爆を考えることは、人間を考えることだと私は思います。

中西 巌Iwao nakanishi

旧被服支廠の保全を願う懇談会 代表 / 被爆者

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今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から2.7キロ離れた場所にある広島陸軍被服支廠で被爆された中西巌(87)さん。
現在この建物の保全活動の代表として、そして語り部として活動をされています。
8月6日当日のこと、会を立ち上げた経緯、若い人たちに向けたメッセージなどを伺いました。

Section 18月6日のこと

原爆に遭われた時、中西さんは何歳でしたか。

15歳でした。
爆心地から2.7キロ離れた広島陸軍被服支廠という場所で学徒勤労動員として働いていました。

この施設は、重要な軍隊の施設で、軍服や軍靴の製造・調達・貯蔵・発送などを行っていました。
働いていた人は2000人近くおり、私と同学年の中学校3、4年生の男女は、あわせて150人ほどいました。
食料も少なくなり空腹状態で連日仕事をしていましたから、とにかく辛い毎日でした。「戦争のためには勝たなくてはいかん、死にたくなければここで仕事をしなくては。」と必死の思いで働いていたのを覚えています。

8月6日の朝もお仕事をされていたのですか。

はい。この日は雲ひとつない天気で快晴でした。朝からとても暑い日でした。
私は、広島市内へ荷物を運搬する準備をしており、倉庫の前で同級生たちと一緒にトラックが来るのを待っていました。
しかし、この日に限って、どういうわけかトラックは来ませんでした。 もし、トラックが到着し、いつも通り市内へ向かっていたら爆心地付近で黒焦げの遺体となっていたでしょう。

トラックに代わる手段を使って市内へ向かおうかと考えていた矢先、突然フラッシュを浴びせられたように目の前が光りました。紫色の強い光の中に包まれ、竜巻に吸い上げられたような感覚と同時に気を失いました。
気がついたら少し離れたところで横たわっていました。
目を開けたとき、あたりは真っ暗でした。不思議な静寂に包まれ、地獄の底にいるようでした。周りを見渡すと、顔中血だらけの友達や、火傷で真っ赤になった友達がいました。助けを求めるような声も聞こえました。

しばらくして、塀の向こうの広島市内で真っ黒な煙や炎があがっているのが見え、大変なことになっていると気づきました。

中西さんご自身にお怪我はあったのでしょうか。

建物の裏側にいた私は、爆風や熱線なども遮られ幸いなことに無傷でした。
その後、兵隊さんと一緒に町へ偵察に向かい、被服支廠からおよそ500メートル離れた御幸橋まで歩きました。
煙や炎の中から負傷した人々がすがるように私たちに助けを求めてきました。
だけど何もしてあげることができませんでした。
町の状況を把握した後、再び被服支廠へ戻りました。

戻ると、建物の中は避難してきた沢山の人たちで溢れていました。
私は倉庫の中にあったゴザを敷いたり、今にも倒れこみそうな人々を迎え入れたりしました。
その時強い放射線を浴びた人の救護で介護被爆をしていましたが、もちろん気づくはずもありませんでした。

夜になって、2時間ほどかけて4キロ離れた自宅へ歩いて帰りました。
避難をされた人々を残して帰ったことになりますが、15歳だった私は兎にも角にも早く母のもとへ帰りたい一心でした。

結局、再び被服支廠を訪れたのは、1ヶ月ほども過ぎた9月上旬頃で、その時には既に倉庫内はがらんどうでした。

9月には、私の身体に異変が起きはじめました。
歯茎から血が出たり、微熱がでて下痢をしたり、斑点、皮下出血なども出ました。
典型的な放射線急性障害でしたが、その時はわからず、不安と恐怖が続きました。

幸いなことに、田舎へ行き、健康的な食材をたくさん食べ、空気のおいしい環境で生活をしていたら半年ほどで回復しました。
とにかく栄養のあるものを食べさせようと必死になってくれた母のおかげだと思います。

最終的に、被服支廠でどれだけの方が亡くなったかは定かではありません。
おそらく500~1000人近くの方がお亡くなりになったように思います。
広島の悲劇の中の一部ではありますが、被爆建物として、そして無言の証言者として現在も同じ場所に建っています。私にとっては命の恩人であり、倉庫内にはたくさんの魂が眠っているとも感じています。

Section 2語り始めたきっかけ

中西 巌さん

中西さんが証言を始められたきっかけを教えて頂けますか

ちょうど定年を迎えた1999年頃、平和記念資料館内のガイド役でピースボランティアの募集を見つけました。
63歳で仕事を辞めるまでずっと、あの日無念にも亡くなった方のことを思い続けていたので、これだ、と思い応募をしました。
2年後、当時の平和記念資料館の館長より、被爆者として証言をしてほしいと相談を受けて語り始めたのがきっかけです。

はじめて証言をされた時のお気持ちを教えてください。

人前で話すことを生業としてきたわけではありませんから、もちろん緊張しました。
基本的には話したくない、忘れたいことばかりでした。
被爆者のほとんどがそうだと思います。話した日の夜はあの日のことを思い出して眠れませんでした。
しかし、そんな辛い気持ちはあっても、話さなくてはいけないのが生き残った私たちの責務でもあると、私は思っています。

命のある限りはともかく伝えるのが、亡くなった方へのせめてもの償いなのです。
あの時、助けてあげることが出来なかった人たちのことを考え、私なりにできることから始めたいという思いと責任感で、16年間誠心誠意をこめてお話をしてきました。

沢山の場所で語ってこられたのですね。

今日で証言は734回目です。
北は北海道、南は石垣島まで、日本中で話してきました。
海外では中国やアメリカにも行きました。

自分が証言をしている時は、いつも天から声が聞こえてくるような気がするんです。
「中西さん、いつも一生懸命話をしてくれているけれども、立派な会場で、ネクタイを締めて、背広着てね、そんな形で灼熱の地獄の中で死んだ我々の無念の想いが伝わるのかと。何をやっとるのかと。」

これからは新しい人の時代です。受け継いでくださる方々に私の想いを託しています。
広島市では、被爆体験伝承者を養成する取り組みが始まっており、現在私の伝承者も9人います。
既に活動を始めてくれており、私の体験と想いをつないでくれているのが心強いです。

Section 3旧被服支廠の保全活動について

中西さんは、現在被服支廠の保全活動をされていらっしゃいますが、将来的に、どんな形で建物を残されていきたいとお考えですか?

今、保全活動の会員は200人近くいます。
色んな方が活用をするためのアイデアを持ってきてくださるのですが、私の考えは、建物の中に座る場所を設け、映像を流しながら話が出来るような、いわゆる証言会場としての活用を第一に考えています。
それから、現在の広島平和記念資料館の資料の一部をあの場所に移して展示をして欲しい。
その中には、日本が、一方で加害国であったという現実も展示して、戦争の実態を知って欲しいとも考えています。

被爆建物である被服支廠の中に平和資料館をつくりたい、ということですね。

8月6日に自分がいた建物が、今、耐震性の問題などで放置されている現実がやりきれなくて。
建物の前を通るたびに「なんとかしなければ。」という気持ちになって、3年前から仲間たちと保全活動を始めました。
私なりに一生懸命やれるだけのことはやっていますが、その結果どうなのだと言われたら何の役にも立っていないという気もしています。
しかし、ともかく、被爆者として命のある限り当時の想いや核兵器の廃絶を伝えて、建物の保存に勤めようと思います。

Section 4伝えていきたい想い

最後に、企画展に携わる若い世代の人たちへ中西さんが語りを通して伝えていきたい想いを教えてください。

今の若い方々には、現在の勉強をしっかりした上で、正しい判断のできる人間になって欲しいというのが、私の願いです。
日本のことだけでなく、世界のことも知って、歴史を学び、自分たちの将来について考えて頂きたい。
それを強く言うのは、私自身が受けた教育がゆがんでいたからです。
小学生の時には「親や命を大事にして、病気や怪我のないよう生きなさい」という教えだったにもかかわらず、戦争がはじまった中学生の頃から「命を投げ出すのは立派である」というものに変わっていきました。戦争とは勇敢なもので、潔く死ぬのが良いことだと教えられたのです。
しかし、原爆投下後の広島のありさまを見て、私は子どもながらに「こんなに無残なものが戦争なのだ」と愕然としました。

戦争になる原因は、政治や宗教・資源・教育・貧困など様々です。
しかし、結局は人それぞれの心が生み出すものです。それぞれの心の中に平和の砦を築かなくてはならない。
人間はどうして戦争をして、なぜ戦争はなくならないのか。このような残酷な行為をする人間とはどういう存在なのか。
原爆を考えることは、人間を考えることだと私は思います。